【特集セカンドライフ】第8回 出会い、学び続ける人生を〜片山 英二さん〜

「特集 セカンドライフ」は、経営者・リーダー・役員など会社で活躍するさまざまな人のセカンドライフ(第二の人生)を聞く特集企画。第8回は弁護士で、数々の企業の社外取締役としても活躍する片山英二さんにお話を伺いました。

【特集セカンドライフ】第8回 出会い、学び続ける人生を〜片山 英二さん〜
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国際的な仕事に憧れた少年時代

国際的な仕事に憧れた少年時代

―どんな子供時代を過ごされましたか?

片山英二さん(以下、片山):ふるさとは岡山県の赤磐郡瀬戸町(現岡山市東区瀬戸町)です。うちは母子家庭で、私が物心つく前に両親が離婚、母は実家のある瀬戸町で商売をしながら女手一つで私を育ててくれました。母は仕事で忙しかったですが、母方の祖母がよく面倒をみてくれたこともあって、寂しい思いはしたことはありません。母は大変な働き者で堅実な暮らしを大切にする人。一方の祖母は旅行や詩吟が好きな趣味人で、いろいろな話を私に聞かせてくれました。この2人に育ててもらったからこそ、今の自分があると思っています。

中学・高校では、素晴らしい先生方との出会いに恵まれました。今も忘れられないのは中学で歴史を教えてくれたA先生と、高校で現国を教えてくれたB先生。
A先生はシベリア抑留の生き残りで、よく捕虜時代の話を聞かせてくれました。「シベリアでは真面目なやつから死んでいった」「ソ連の統計を信じてはいけない」など、当時の私には衝撃的なエピソードの数々に夢中で耳を傾けたものです。一方のB先生は東北の出身で、「東北に行って駅弁を食べたら、少し多めに米粒を残して列車の窓から放り投げてやれ。子供たちがそれを拾って食べる。東北はそれほど貧しい土地なんだ」というような、私の知らない世界について臨場感あふれる話をしてくれました。

当時は、インターネットはもちろんテレビすらない時代。私は先生方の話を通じて、世間の広さを知り、目を開かせてもらったように思います。ちょうど明石康さん(元国連事務総長特別代表)の書いた「国際連合」(岩波新書、1965年)を読んで感銘を受けたこともあって、「海外と関係のある仕事がしたい」と思い始めたのもこの頃です。

とはいえ、具体的に何か目標とする職業があったわけではありません。ただ、数学が得意だったので何となく理系を選択し、京都大学の工学部に進学しました。特に京大にこだわりがあったわけではなく、ちょうど私が受験生だった1969年はいわゆる大学紛争で東大入試が中止になった年だったので、なんとなく流れで京大へ……と、今にして思えばなんとも頼りない限りですが、とにもかくにも大学生活がスタートしました。でも、いざ入学してみると、京大は実に素晴らしい大学でした。とにかく自由で先生方の懐も深い。勉強の方はともかく、友人や先輩にも恵まれて大学生活はすごく楽しかったですね。

初めての海外へ。自分の目で見ることの大切さを知る

初めての海外へ。自分の目で見ることの大切さを知る

―大学時代は何に力を入れていましたか?

片山:一番夢中になったのは、海外旅行です。同じ下宿の先輩の紹介で、ホームステイをしながら海外を安く旅する旅行の会に入りまして、大学2年の夏に3ヶ月かけて1人でヨーロッパを周ったのを皮切りに、いろいろな国に行きました。

忘れられないのは、旧ソ連に行ったときのこと。私自身は大学紛争には関わっていませんでしたが、当時の大学の雰囲気は完全に「左」。私も少なからず影響を受けていましたので、ソ連に多少の親近感を持っていました。いったいどんな国なんだろうかとワクワクしながら大阪を船で出発し、ナホトカからシベリア鉄道でハバロフスクへ。そこから国内線の飛行機に乗って、目的地であるオデッサ(現ウクライナ)という街の空港に降り立ちました。するとそこで出迎えてくれたのは、非常に流暢な日本語を操る、美しいソ連人女性。案内されたのは、まるで宮殿のような豪華なホテルでした。
「単なる大学生を何故こんなにもてなしてくれるのか」と疑問と驚きでいっぱいでしたが、よくよく考えると、目的は私を監視することなんですよね。この旅ですっかりソ連に幻滅したからでしょうか、この頃から私は「やはり何事も人の話を鵜呑みにしてはいけない、自分の目で見なくちゃいけないんだ」と考えるようになったと思います。

働きながら法学部へ。

働きながら法学部へ。

―大学卒業後は、大阪に本社を置く製薬会社に就職。その後、法曹の道に進まれましたが、どんな経緯があったのですか?

片山:大学時代に所属していた旅行の会の関係者が、この製薬会社で知財関係の部署で責任者をしていた関係で声をかけてもらい、入社を決めました。入社前は法律を専門にするとは夢にも思っておらず、ただ国際的な仕事ができると聞いて興味をもったのが決め手でした。

入社後しばらくは普通に働いていましたが、ある大きな訴訟で会社側弁護団会議の事務局を担当したことで、転機が訪れました。事務局での私の役割はその会議の議事録を作ることだったのですが、話の内容が専門的かつ難解過ぎてさっぱり理解できなかったんです。
さすがにこれはまずいなと思いまして、神戸大学の法学部の夜間に入り、法律の勉強を始めました。すると、これが意外と面白かったんですよね。平日はなかなか難しかったですが土曜日の講義は毎週真面目に通いました。そんな私の様子を見て、顧問の先生方が「司法試験、受けてみなさいよ」と勧めてくるわけです。今考えると無責任な話ですが、私もまんまとその気になってしまって、司法試験に臨むことになりました。そして紆余曲折を経て、3回目に無事合格。

当初は会社を休職扱いにしてもらって司法研修を受け、それが終わったら会社に戻るつもりだったのですが、会社の顧問弁護士の1人だった阿部昭吾弁護士の「君は弁護士が向いているよ」の一言で腹をくくりました。意識してはいませんでしたが、当時の私は周囲にいた弁護士の先生方の仕事ぶりに憧れて、自分もあんなふうに働きたいと思っていたのでしょうね。会社と話し合って円満退社し、2年間の司法研修を経て阿部先生の事務所(現 阿部・井窪・片山法律事務所)に入所、33歳で弁護士としての第1歩を踏み出しました。

多くの「戦友」に出会う

多くの「戦友」に出会う

―弁護士としては主に倒産法の専門家として会社更生事件に関与し、管財人や申立代理人として多数の会社更生を手掛けてこられました。これまでを振り返って、今、どのように感じていらっしゃいますか?

片山:私たちのような管財人が登場する現場というのは、大抵の場合、どっちを向いても苦しい状況に置かれた人に囲まれています。経営陣はもちろん苦しい、給与やボーナスをカットされた従業員も苦しい、仕事がなくなる下請けの人たちだって苦しいんです。皆さんの苦しい胸の内を聞いて、なんとか全員に折り合いをつけていくのが管財人の仕事と言っても過言ではありません。もちろん一筋縄ではいきませんが、懸命にやっていると、一部の社員の皆さんとの間に、まるで「戦友」になったかのような不思議な連帯感が生まれる瞬間があるんですよね。苦労の多い現場で、私はこの「戦友」の皆さんから本当に多くを学ばせてもらいましたし、貴重な経験をたくさん積ませていただきました。

私たちの仕事は成功したとしても、何か目に見える「モノ」が成果として出来上がるわけではありません。ただ、その企業が長い時間をかけて育んできた組織や、「戦友」の皆さんの活躍の場を残すことはできます。この喜びがあるからこそ、かれこれ36年間も弁護士を続けてこられてきたのかもしれません。

いろいろな人に出会える場に身を置く

いろいろな人に出会える場に身を置く

―弁護士として活躍される一方、大学院で教鞭を執られたり複数の企業で社外取締役に就任したりと、活躍の場を広げられていますね。

片山:はい、いろいろと経験させていただいています。特に意識したわけではないのですが、ある時期から、本業の弁護士以外の役割を仰せつかることが増え、今では仕事時間の半分くらいを弁護士以外の職務に充てるようになりました。もちろん、弁護士としての実績がベースとなってはいるわけですが、100%弁護士の立場で働いているときとはまた違う世界を見せていただいて、非常に充実した毎日を過ごしています。こうして働き方や仕事の時間配分が変わったという意味で、私はすでにいわゆるセカンドライフに入っているのかもしれませんね。

―2020年に70歳を迎えられました。これから、どんなセカンドライフを送りたいと考えていますか?

片山:実は10年ほど前、還暦を迎えたころにセカンドライフの過ごし方を考えたんです。その結果、出した結論は、「セカンドライフも働き続けよう」ということです。求められる限り、何らかの形で自分の力を社会の役に立てていきたいと思っています。

そのために実践しているのは、いろいろな人に出会える場に敢えて身を置くことです。これまでの自分を振り返ってみると、中高時代の恩師との出会い、大学での旅の会の人たちとの出会い、そして就職先の会社での弁護士の先生方と出会い、弁護士になってからは多くの「戦友」との出会い……、本当に多くの出会いに導かれてここまでやってきました。いろんな人に出会えたからこそ、新しい世界を知ることができ、少しずつでも人として成長することができたんだと思っています。セカンドライフも、いろいろな人と出会って刺激をもらい、面白いと思ったことにはどんどん挑戦していきたいですね。

あとは、頭と心を錆びつかせないように常に学び続けたいと思っています。最近はNHKの講座でイタリア語を学んだり、フィナンシャルタイムスの講座でイギリスのコーポレートガバナンスについて勉強したりしています。こうやってフラフラと興味のあることに首をつっこむ私を許容してくれる家内にも、これからはもっと感謝の意を表さないといけないと思いまして(笑)。
最近、三菱UFJ信託銀行のアプリ「わが家ノート」を使い始めたんですよ。普段は照れくさくて面と向かって話しにくいことも、このアプリなら無理なく書き込めますし、いざというときのために伝えておきたいことも記録できます。特にお金に関することは、これまであまり真面目に取り組んでこなかったので、自分の死後に家族が困らないよう、「わが家ノート」でちゃんと整理しておこうと思っています。

コロナ禍をチャンスとして受け入れる

コロナ禍をチャンスとして受け入れる

―2020年は新型コロナウイルスの感染拡大で世界中が混乱に陥り、日本社会もいまだ不安定な状況が続いています。これからの時代を生きていく若い世代へのアドバイスをお願いします。

片山:「コロナ禍を生きる」という経験を、前向きにとらえることが大事だと思っています。こんな時代に生きることができるのは、考えようによっては、ものすごいチャンスです。例えば、私は外出自粛期間中に、ある会社の取締役会で「ポストコロナ時代をどう生きるべきか」というお題の宿題をもらったんですよ。実に難しい問題です。でも、外出自粛期間中でしたから、仕事や用事が減った分、この問題について考える時間がたっぷりありました。何かを考えることに時間を使う、この贅沢をコロナはもたらしてくれたのです。皆さんも、コロナを機にいろいろなことを考えたのではないでしょうか?働き方について、暮らし方について、そしてこれからどうすべきかについて。実際に転職をしたり転居をしたりして、生活を変えた人も少なくないでしょう。

コロナは確かに大きな禍を人類にもたらしていますが、同時に一人ひとりが自分で考え、行動を起こすきっかけをも与えてくれました。このチャンスを生かさない手はありません。まだしばらく制限のある日々が続くかもしれませんが、外出や集会がままならなくても、オンラインで人と会い、学ぶ機会はたくさんあります。まずは、いろんな人に会って自分とは異なる価値観に触れ、面白そうなことがあればチャレンジを。そこからきっと、また新しい世界が広がっていくのではないでしょうか。私もそうやって、withコロナのセカンドライフを、より豊かに楽しく過ごして行きたいと思っています。

※この記事は2020年11月に行った取材をもとに作成しております。

今回お話を聞いた人

弁護士、阿部・井窪・片山法律事務所パートナー
片山 英二(かたやま えいじ) さん

弁護士、阿部・井窪・片山法律事務所パートナー 片山 英二(かたやま えいじ) さん

片山 英二氏 プロフィール
1950年岡山県生まれ。1973年京都大学工学部卒業後、藤沢薬品工業株式会社に勤務。1982年神戸大学法学部卒業、司法研修所(36期)。1984年弁護士登録、銀座法律事務所(現阿部・井窪・片山法律事務所)入所。1988年~90年欧米留学・研修(ニューヨーク、パリ、ブリュッセル、ロンドンなど)。1989年米国ニューヨーク州弁護士登録。2002年~2007年東京大学先端科学技術研究センター・科学技術振興特任教授、2005年~2009年早稲田大学大学院法務研究科非常勤講師、一橋大学大学院法学研究科非常勤講師。2007年~MIPLC(Munich Intellectual Property Law Center)教授。2012年~一橋大学大学院国際企業戦略研究科非常勤講師、2016年~神戸大学大学院法学研究科客員教授。生化学工業㈱ 社外取締役、三菱UFJ信託銀行㈱ 社外取締役 監査等委員、㈱アカツキ 社外監査役なども務める。

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