【特集セカンドライフ】第7回 先人の業績の上に、小さな石をひとつ〜沖野 眞已さん〜

「特集 セカンドライフ」は、経営者・リーダー・役員など会社で活躍するさまざまな人のセカンドライフ(第二の人生)を聞く特集企画。第7回は東京大学大学院教授で政府の審議会や中央労働員会のメンバーとしても活躍中の沖野眞已(おきの まさみ)さんにお話を伺いました。

【特集セカンドライフ】第7回 先人の業績の上に、小さな石をひとつ〜沖野 眞已さん〜

法律の「美しさ」に出会った学生時代。恩師の一言で研究職の道へ

法律の「美しさ」に出会った学生時代。恩師の一言で研究職の道へ

―小学校時代の夢は、意外にも「甲子園球場のウグイス嬢」だったそうですね?

沖野眞已(以下、沖野):そうなんです。熱心な阪神ファンだった父に連れられて球場に行くうちに、憧れてしまったんですね。よく「1番、セカンド中村~」とか口真似してました(笑)。でも、高校時代にはうっかり野球部のない高校に入ってしまいすっぱり諦めて、通訳のような英語を活かせる仕事に就きたいと思うようになりました。幸い、両親の教育方針は自由放任で、男女に関わらず好きな勉強をして好きな道に行けば良いというものだったので、高校時代にはこれも憧れと好きな英語を学ぶために1年間のアメリカ留学をさせてもらい、大学も自分の希望する東京の大学へということで東京大学の文科1類・法学部に進むことができました。

とはいえ、正直に言うと、法学部を選んだのは本気で法曹の道を志していたわけではなくて、「なんとなく、つぶしが効きそう」という不純な動機からでした。当時はまだ男女雇用機会均等法の施行前で、女性が長く働ける仕事は少なかったので、法学部に行って司法試験に受かれば、食べていくのには困らないだろう……というようなことを考えていました。入学当初は、英語が活かせる外交官試験を受けてみようかなとも思っていました。要するに、深く考えていなかったんですね(笑)。

甲子園球場

子供の頃の夢は「甲子園球場のウグイス嬢」だったという沖野さん

―結果として弁護士や外交官ではなく研究職の道を選ばれた理由は?

沖野:大学の講義で法律に触れて、すごく感動してしまったんです。「なんて美しいんだ、なんて壮大な論理的構成物なんだろう!」って。まるでジグソーパズルのピースがスポッとはまるように論理的に組み立てられている法律の魅力に、すっかり取り憑かれてしまいました。

特に、解釈に幅のある民法に興味をもち、民法の大家である星野英一先生のゼミを履修させてもらい、民法の深さに触れて研究の面白さに惹きつけられました。ただ、自分に法律の研究者になるほどの能力がないことは自覚していましたので、途中までは大学外での就職を考えていました。外交官や弁護士の方にお話を聞きにいったこともあります。弁護士や裁判官になる可能性も視野に入れて司法試験を受験し、幸い合格しましたので卒業後は司法修習に行くつもりでした。

でも、どうしても研究をしたいという気持ちを断ち切れませんでした。そこで「星野先生に相談してみよう」とは思うのですが、「私ごときが研究者になりたいなんていい出したら、おこがましいと言われるのでは……」などと悩んでしまって。しかし、1ヶ月後ぐらいにやっと意を決して先生に「研究者になりたい」と伝えたところ、先生はなんと「あなたは研究者に向いていると思っていました」と背中を押してくださったのです。あの一言がなければ、今、私は研究者になっていなかったと思います。

先人たちの業績の上に、石を一つ積む

先人たちの業績の上に、石を一つ積む

ー大学卒業後は大学院には進まず、東京大学で助手として研究者の道をスタートされました。最初は論文執筆に苦労されたそうですね?

沖野:はい、本当に苦しみました。全然、書けないんですよ(笑)。書き始めても、途中で「こんなものを書いて、何になるんだろう? 何の役に立つんだろう?」という悩みのループにはまりこんでしまいました。大変な労力と時間をかけて、「知的なゴミ(intellectual trash)」を作り出しているような気までしてきてしまって……。

そんな状態の私を救ってくれたのも、恩師・星野先生の言葉でした。先生は、「私たちの仕事は石を積むこと、先人の残してくれた業績の上にひとつ石を積めばいいんです」と言ってくださったのです。そう、考えてみれば、私ごときの論文に、誰もそんなすごいことを要求していないわけです。そもそも法律という学問の分野では、物理や科学の世界のように、世紀の大発見とかコペルニクス的転回なんていうものは、まず起きません。星野先生がおっしゃったように、先人たちが作った法律、積み上げた法律論をベースに研究を続け、共有していくことが、私たち研究者の役割なんだと思います。星野先生は、これを私に気づかせてくださったんですね。だからといって、スラスラと論文が書けるようになったわけではありませんが……(笑)。

実は数年前、この助手時代に書いた論文に関して、すごく嬉しいことがあったんですよ。ある優秀な大学院生が、私の学会報告を題材に論文を書き、それが東京大学のローレビューに掲載されたのです。何十年も前に書いて、そのままになっていた学会報告を彼が見つけて読んでくれただけでもすごいことなのに、それを題材に新たな論文を書いてくれるなんて……。彼は今は別の大学で研究を続けていますが、私は思いがけず自分の学びを優秀な次世代に共有できたことを、本当に嬉しく思っています。意味がないわけではないんだ、と。もしかしたら、私が死んだあとにも誰かが私の論文を新しい研究の契機に役立ててくれるかもしれません。そう思うと、苦手な論文執筆にも、少しは前向きな気持ちで取り組むことができそうです(笑)。

後に続く人の道を閉ざすことのないように

後に続く人の道を閉ざすことのないように

―東京大学法学部では、女性の教授は沖野先生が4人目だったとうかがっています。同性のロールモデルが少ない中、ご苦労されたことはありませんか?

沖野:確かに学部時代は1学年文Ⅰ・630人のうち女性は30人強でしたし、卒業後も比較的女性が少ない環境で仕事をし、研究を続けてきました。でも、幸いにも私の世代は、さまざまな分野で「女性初」を免れることができた世代で、数は少なかったですが、法律の世界でもすでに活躍している女性の先輩が各所にいらっしゃいました。そういった先輩方がいろいろなものと戦って、必死で切り拓いてくれた道がありましたから、私の世代はそこまで大変ではなかったのです。

ただ、せっかく先輩方が苦労して作って下さった道を、自分が閉ざしてはならないという点は、常に意識していました。印象に残っているのは、助手になるにあたって指導教授を引き受けてくださった米倉先生に「良い論文を書きなさい」と言われたことです。かつては東大の助手を務めれば、男性なら論文なしで就職できるようなこともあったようですが、女性の場合はそうはいかない。だから、しっかり力をつけなさいというアドバイスでした。今にして思うと理不尽な話ですが、当時はとにかくそういう懸念のある時代でしたから、ミスをして「だから女はダメなんだ」と言われること、それが後に続く女性たちの可能性を狭めてしまうことは絶対に避けたいと思っていました。

一方、女性だからこそ、活動の幅を広げることができたのも事実です。特に女性で実定法の専門家はまだ少なかったので、政府の審議会や委員会、民間団体役員などの末席に加えていただく機会も多く、大学ではできないさまざまな経験をさせていただきました。

セカンドライフは原点回帰して、契約法の研究を

セカンドライフは原点回帰して、契約法の研究を

―東京大学の定年は65歳とのことですが、定年後のセカンドライフはどんなふうに過ごしたいですか?

沖野:セカンドライフのロールモデルは、たくさんいらっしゃるんですよ! 例えば星野先生は、東大を定年後、千葉大学や放送大学で教鞭を取られ、インターネットを使いこなして、どんどん新しいことにチャレンジされていました。同じく東大の定年後に他の大学で教える傍ら、趣味でボートの免許を取ったというアクティブな先生もいらっしゃる。

私も先輩方のように、専門分野を活かして社会に貢献しつつ、好きなことをしながら過ごせたらいいなと思っています。必ずやろうと決めているのは、自分の原点である契約法の研究です。研究がセカンドライフの夢なんていうと驚かれるかもしれませんが、これまでやりたくでもできなかったことなので、これは言い訳ですが、腰を据えて取り組みたいと思っています。

あとは、荒れ放題になっている庭にも心をかけたいですね。少し前に病気をして入院をしたのですが、退院して久しぶりに家にもどってみると、庭でひっそりと桃の花が咲いていたんです。誰も見ていないし、誰にも世話もされていないのに健気に咲いている姿を見て、なんだか涙腺が緩んでしまいました。これまで忙しくて花を愛でるような生活をしていませんでしたので、定年後は、庭の世話をしながら花を育てて愛でるような時間も持ちたいですね。その意味で、理想は晴耕雨読です。学びの時間と遊びの時間のバランスを上手くとりながら、セカンドライフを楽しめたらいいなと思っています。いろいろやりたいことはありますが、そのためには健康に気を配る必要があると思いますので、これから体力づくりにも取り組みたいですね。

過去に「心」を残さない生き方を

過去に「心」を残さない生き方を

―最後に若い世代へのメッセージをお願いします。

沖野:ふたつあります。ひとつめは、まだ見ぬ未来への備えです。未来はバラ色に見えても灰色の事象が起こる可能性もあります。人には「退路を絶たれると力が発揮できるタイプ」と、「逃げ道がある方が力を発揮できるタイプ」がいます。私は絶対に後者で、逃げ道がないと不安で動けなくなってしまいます。つまり、将来への不安がブレーキになって前に進めなくなってしまうのです。このタイプの人は、将来が不確実であるからこそ、まずは今現在の心の平安を得ることが大切です。

私の場合、大学卒業後のことが不安だったので司法試験を受けました。司法試験に合格して「助手がダメでも、弁護士になれる」という心の平安を得られたからこそ、勇気を出して助手の道へ踏み出すことができたのです。今、定年後の生活のために、終身型の医療保険に入っているのも同じ理由です。保険に入ったのは、将来の不安を払拭するためというよりは、今の心の安定を得るため。心が安定しているからこそ、定年後の生活を前向きに捉えることができます。まだ見ぬ未来を心配して動けなくなるより、今現在の自分の心の安定を守る行動をとることで、将来に向かって一歩を踏み出せるようになるのではないでしょうか。

ふたつめは、よく考えること。私は、あまりよく考えずに進路をコロコロと変えてしまいました。もともと通訳になりたかったのですが、「つぶしが効きそう」という動機で法学部に入りましたし、大学に入ってからも「英語を使える職業を」と考えていたのに「大変だ」という話を聞いて外交官はあきらめ、弁護士や裁判官という選択もわりと簡単に措いてしまいました。

それはそれで良かったと思っていますし、今の自分に満足していないわけではないのですが、たまに振り返って「あのとき、別の選択をしたら、どうなっていたんだろう」と思うことがあります。同じく文Iに入りながら自分の意志で夢を叶えた友人の活躍を見て凄いなと思ったり、そういう可能性もあったんだと思い知らされたりもします。そしてその度に、「自分は十分に考えてきたんだろうか」と反省するのです。

若い頃の私は意識していませんでしたが、何かひとつの道を選ぶということは、それ以外の無限の可能性を捨てるということです。無限の可能性と引き換えに選んだ選択肢に、「自分は本当に納得しているのかな?」と、立ち止まって考えてみればよかったな、と今は思っています。納得できないまま進むこともできますが、中には心が過去に残ったままになってしまう人もいます。そういう人は、一度は別の道に進んでも、結局、元に戻ってきてしまうケースも珍しくありません。もちろん、遠回りの人生も悪くはないですが、過去に心を残したまま生きるのは辛いですよね。そうならないためにも、人生の分岐点では、考えすぎない程度に、しっかり自分で考えて納得してから決断を下したほうが良いと思いますし、自分自身もそう心がけて生きていきたいと思っています。

※この記事は2020年10月に行った取材をもとに作成しております。

今回お話を聞いた人

東京大学大学院法学政治学研究科教授
沖野 眞已(おきの まさみ)さん

東京大学大学院法学政治学研究科教授 沖野 眞已(おきの まさみ)さん

沖野 眞已氏 プロフィール
奈良県生まれ。1983年東京大学入学。86年司法試験合格。87年法学部卒業、東京大学法学部助手。90年筑波大学社会科学系専任講師、93年に学習院大学法学部助教授・99年同教授、2007年一橋大学大学院法学研究科教授。2010年より東京大学大学院法学政治学研究科教授(現職)。95年~96年米国バージニア大学ロー・スクールにてLLM。2002年~04年法務省に出向、法務専門官として、主に倒産法改正に従事。民法・信託法・消費者法を専攻。金融審議会委員、中央労働委員会公益委員などの社会活動にも積極的に取り組んでいる。

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