江戸時代のお金の仕組み、流通について解説!三貨制度とは?両替商とは?

江戸時代では現在の形とはまったく違うお金の制度や単位に支えられていました。当時の貨幣を調べると、文化や経済の歴史まで見えてきます。お金の歴史や文化、当時の価値など、現代ではありえない経済を展開していた江戸の時代を紐解いてみましょう。

江戸時代のお金の仕組み、流通について解説!三貨制度とは?両替商とは?

まずは知っておきたい石高制(こくだかせい)から貨幣経済への移り変わり

まずは知っておきたい石高制(こくだかせい)から貨幣経済への移り変わり

江戸幕府の下では、経済の土台を「石高制(こくだかせい)」が支えていました。石高制とはお米を幕藩体制の礎とするシステムです。幕府から藩主への給料は、それぞれの領土で回収できた年貢に応じて、米によって賄われてきました。藩主から家臣への給料も当然、お米で支払われます。支給後、自分たちで食べるぶんを残して米は売られ、金銭に換えられていました。米を現金に換えるとき、積極的に利用されたのが「天下の台所」の異名を持つ大坂です。江戸時代初期の1620年代には全国で約500万石の米が市場に出回っていたとされますが、そのうちの約4割が大坂のみで取引がおこなわれていたとも言われています。

徳川の時代はしばらく、米と貨幣の二つが同等の価値を持つ経済として発展していきます。しかし、江戸時代後期になると貨幣経済が中心になってきました。農業が進歩して米以外にも価値のある作物が増えたこと、「信用経済」という概念が生まれ手形などを扱うには貨幣が不可欠だったことなどが原因と考えられています。

現代と異なる江戸時代のお金の仕組み

現代と異なる江戸時代のお金の仕組み

「お金」とはいっても、現代と江戸時代ではお金の種類も仕組みも別物でした。では、どのような制度や仕組みのもと、通貨は回っていたのでしょうか。

金・銀・銅の三貨制度だった

この時代の貨幣事情を語るうえで外せないのが「三貨制度」です。当時、日本では、金・銀・銅の三種類の通貨が流通していました。銅は現代でもお金に使われているものの、金と銀があったのは江戸時代ならではのことです。

また、金や銅は現代と同じく計数貨幣であったため枚数によって額面が変動しましたが、銀は「秤量貨幣(しょうりょうかへい)」として使われており、重さによって価値が決まっていました。そのため、銀の通貨を使うときには必ず、量りによって重さが確認されました。

金・銀・銅でそれぞれ単位が別だった

現代でも、造幣される硬貨によって必要な材料は異なりますが、100円玉や10円玉に限らず、紙幣においても同じく「円」という単位で統一されています。しかし、当時は通貨の種類によって違う単位が用いられてきました。金であれば「両、分、朱」が、銀だと「貫、匁、分」、銅は「文」という具合です。その3通貨間の交換レートは日々変動していたようです。

金の価値は4進法で計算されていた

現代のお金は10進法で価値が示されます。しかし、江戸時代において、金の計算には4進法が用いられていました。1両は4分であり、1分は4朱でした。つまり、1両は16朱と換算され、流通していました。

貨幣は頻繁に「改鋳」がおこなわれた

昔の貨幣は頻繁に改鋳が実施されていました。改鋳とは、貨幣に含まれる金や銀の量を変更することです。貨幣の価値を大きく変動させることもあるので、現代社会では滅多におこなわれませんが、江戸時代では米の値段を調整する目的で繰り返しおこなわれてきました。また、貨幣の質が悪く、折れたり欠けたりするケースも少なくなかったことから改良が加えられていった側面もあります。

【参考】造幣局「江戸時代のお金のしくみ」詳しくはこちら
【参考】man@bow(まなぼう)「大判・小判から一文銭まで…江戸時代のお金のしくみは?」詳しくはこちら
【参考】三菱UFJ銀行「貨幣史年表 ~日本の貨幣 そのあゆみ~」詳しくはこちら

江戸時代はお金の流通も現代とは異なるものだった

江戸時代はお金の流通も現代とは異なるものだった

今では日本全国で同じお金が当たり前のように使われています。しかし、昔の日本では決して当たり前ではありませんでした。

主に江戸では金が使われ、大坂では銀貨が使われた

当時、東日本の経済は江戸、西日本は大坂を中心にして活動がおこなわれていましたが、江戸では金が頻繁に使われていたのに対し、大坂では銀が中心の経済が構築されていました。そのため、大坂の商人が江戸に行ったり、その逆だったりするケースでは換金に苦労したといわれます。そこで、「両替商」と呼ばれる仕事の需要が高まりました。三井や住友といった財閥は両替商として名前を上げていきます。

小判はめったに庶民の手に渡らなかった

価値の高い小判は庶民の手に渡ることがほとんどありませんでした。庶民にとっての高級なお金はあくまで銀であり、ふだんは銅で買い物をしていたと推測されます。仮に小判が手に入っても借金や家賃ですぐに消えてしまう運命だったので、家に留まることは稀だったといえます。

銀行がない代わりに「両替商」があった

両替商はお金に絡む取引全般を請け負っていました。最初は両替を専門におこなっていた業者も、江戸時代の経済が発展していくにつれ、さまざまな形で資金を運用していくようになります。たとえば、お金を貸し付けたり、利子をつけて預かったりといった仕事もこなすようになりました。ほとんど、現代の銀行と同じ仕組みが生まれていたようです。

また、両替商は「送金」も請け負っていました。交通機関も未発達で、現代のようにインターネットもない江戸時代では、遠方にお金を送るだけでも随分な労力が必要とされました。そこに目をつけたのが両替商です。人々は両替商のように資金力のある商人を通して、送金の手段を得ていました。こうして、一部の両替商は次々に力をたくわえていき、明治における財閥と化していきます。

【参考】造幣局「江戸時代のお金のしくみ」詳しくはこちら
【参考】man@bow(まなぼう)「両替商は銀行のルーツ~江戸時代のお金の仕組みとは?」詳しくはこちら

江戸時代のお金を現代の価値で表すとどのくらい?

江戸時代のお金を現代の価値で表すとどのくらい?

多くの研究者が、江戸時代のお金を現代の価値に換算するための調査をおこなっています。しかし、その頃は経済が著しく変化していたために、貨幣の価値も大きく変動していました。前述したとおり、通貨間の換算レートも日々変動するうえ、物価そのものがまったく現代と異なるので、一概に置き換えることはできません。そもそも、徳川幕府ではお金が占めていた立ち位置が現代とは異なるのも、研究を複雑にしています。
あくまで目安でいうと、1両はおおよそ4万円の価値で落ち着いていたとされます。その4分の1なので分が1万円、朱が2500円といえます。ただ、最大で8万円ほどの価値まで高騰した時期もありました。このように、経済が安定しないため、その価値を一概に置き換えるのは難しくなっています。

実際、さまざまな文献を読んでいっても、両の価値はまちまちで掲載されています。それは、両が扱われる場所によって価値が変動していたからです。長らく物価の中心であった米の取引では1両約4万円相当だったものの、大工仕事の代金では1両約30万円相当と大幅に価値を変えています。これは、江戸時代がいかに独特な経済をおこなっていたかがわかるエピソードです。

【参考】造幣局「江戸時代のお金のしくみ」詳しくはこちら
【参考】man@bow(まなぼう)「江戸時代の「1両」の価値ってどれぐらいだった?」詳しくはこちら
【参考】貨幣博物館「江戸時代の1両は今のいくら? ―昔のお金の現在価値―」詳しくはこちら

まとめ

まとめ

江戸時代は日本経済が発展していくために、とても大切な期間でした。実際、昭和初期まで力を振るっていた日本の財閥のいくつかは江戸時代に誕生しています。小判や古銭などお金の歴史を紐解いていくと、現代日本につらなる経済の流れが見えてくるでしょう。また、文化的な意味でも興味深い発見がたくさん出てくるはずです。

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