戦国時代のお金事情!貨幣経済の発展の背景とは

戦国時代は金貨や銀貨を作り始めたことにより、貨幣の発展に大きく影響を与えたともいえる時代です。そんな戦国時代の貨幣とはいったいどのようなものだったのでしょうか。この記事では、貨幣の歴史とともに戦国時代に使われた貨幣の種類をご紹介します。

戦国時代のお金事情!貨幣経済の発展の背景とは

貨幣の歴史から見る戦国時代

貨幣の歴史から見る戦国時代

ひと昔前の20世紀末までは、日本最古の貨幣は和同開珎とされてきました。今日では、和同開珎より25年ほど古い富本銭が、国内で初めて鋳造された貨幣とされています。その後、平安時代中期までに12種類の銅銭(皇朝十二銭)がつくられましたが、ほとんど流通することなく、日本の貨幣経済はここでいったん途絶えてしまいました。当時の技術では良質の銅を十分に確保することができず、銅銭の質に対する人々の信用が得られなかったのが原因とされています。

平安時代末期になると、また貨幣の需要が高まりました。けれども、そこで使われたのは中国から輸入した宋銭。なかでも武家として初めて国内政治の実権を握った平清盛は、日宋貿易によって大量の宋銭を獲得・流通させ、平家の支配体制の確立を図りました。

戦国時代に入ると、大名同士が勢力を競うなかで鉱山開発も盛んになります。さらに諸外国との交易を通じて新しい精錬技術が導入され、金や銀の産出量も飛躍的に増大しました。各大名は基本的に自領内が1つの独立した経済圏だったので、それぞれが産出した金銀を用いて独自の金貨・銀貨を鋳造し、領内で流通させていきます。

天下は豊臣秀吉によって統一されますが、貨幣制度が統一されるのは、その次の徳川家の時代まで待たなくてはなりません。江戸時代初期に全国一律に通用する金・銀・銅貨が制定されます(三貨制度)。ここから貨幣経済は一気に加速することになるのです。

【参考】独立行政法人造幣局「日本の貨幣の歴史」詳しくはこちら
【参考】三菱UFJ銀行貨幣資料館「貨幣史年表 ~日本の貨幣 そのあゆみ~」詳しくはこちら

戦国時代の貨幣の種類

戦国時代の貨幣の種類

全国の大名が争っていた戦国時代には、全国共通の為替レートのようなものはありませんでした。それぞれの大名が自前の金貨や銀貨を発行していたため、国内には多種多様な貨幣が出回り、取引に使われていました。ここでは、そのうち代表的なものを紹介します。

渡来銭

砂金などの輸出品との交換で中国から輸入された貨幣を、総称して渡来銭と呼びます。宋王朝から輸入した前述の宋銭もこれに含まれますが、その後の元や明の時代にも多くの銅銭が海を渡り国内へ持ち込まれました。
なかでも明王朝で鋳造された永楽通宝は、材質も良く重さや形も一定していたため、日本国内でも大量に出回っています。

鐚銭(びたせん)

「ビタ一文」という慣用句の語源となったもので、粗悪な貨幣をひっくるめてこう呼びます。ひと口に粗悪といってもその内容はさまざまで、渡来銭が経年劣化して摩耗したり文字が潰れたりしたものや、価値的裏付けのない私鋳銭(私的に鋳造された貨幣)なども含まれます。
鐚銭は粗悪な貨幣ゆえに価値が定まっているわけではなく、もともとの貨幣の額面よりも低い値で取り扱われるのが常でした。商いの際などには受け取りを拒否されることも多かったようです。

甲州金

戦国大名が私的に鋳造した貨幣として、もっとも有名なものの1つが甲州金です。甲斐国の武田信玄が発行していた金貨で、武田氏の金山開発が他国の群を抜いていたことは、信玄の城攻めでしばしば金掘衆が活躍していることからもうかがえます。

甲州金には両・分・朱・朱中・糸目・小糸目・小糸目中の7種の貨幣があり、お互いに交換比率がきちんと決まっていました。なかでも両がもっとも高価。対して、小糸目中がもっとも価値が低く、「金に糸目をつけない」という言葉は、糸目以下の少額にはこだわらないという意味で、この甲州金に由来しているという説があります。

【参考】三菱UFJ銀行貨幣資料館「貨幣史年表 ~日本の貨幣 そのあゆみ~」 詳しくはこちら
【参考】地域シンクタンク 公益財団法人 山梨総合研究所「甲州金概説」 詳しくはこちら

信長の強さは経済政策にあった

信長の強さは経済政策にあった

天下を統一したのは豊臣秀吉であり、安定政権を築いたのは徳川家康でしたが、その下地を切り開いたのは織田信長です。尾張国(愛知県西部)の地方大名からスタートした信長は、天下布武を唱えて国内に並ぶ者のないほどの勢力にまで登り詰めました。
ですが、その偉業は武力だけでは、到底、成し得ませんでした。そこには現代にも通じる信長の優れた経済政策も関係していたのです。

永禄11年(西暦1568年)、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、将軍の庇護者としてその存在を全国に知らしめます。そしてその翌年、京洛を中心とする畿内領域に通貨法令を発布しました。その内容は大きく3つの点で画期的であったといわれています。

交換レートを整備

交換レートを整備

この法令で、信長は金と銀、そして銅銭の交換比率を定めました。多種多様な銭が氾濫していた戦国時代にあっては、価値の保証がない貨幣を実際の商取引に用いるのはリスクがあり、円滑な経済活動の妨げとなっていたのです。
信長はこの状況を整理し、まず基準となる「精銭(せいせん)」を指定し、それに対する各種レートを担保することで、領内の経済活動の安定化を図ったと考えられています。

高額取引に金銀を使用

続いて信長は、薬やタンス、茶碗などの高額取引には金貨や銀貨を使うよう指示しています。当時は希少価値の高い金貨や銀貨は褒美や贈答、海外との貿易の交換品として扱われるのが主でした。甲州金も、貨幣ではなく贈答品として使われていたようです。そのため庶民も行うような一般的な取引でや銀が使われることはなく、もっぱら銅銭が用いられていました。
信長のこの法令によって初めて、金銀が貨幣としての価値を持つようになったといわれています。金山や銀山は、勢力を拡大していくなかで獲得することが可能です。そうして産出した金や銀を貨幣として利用できれば、効率よく軍費を調達することもできます。

信長本人も、金銀の流通を「名物狩り」という形で後押ししました。茶道具などの美術品を大量に買い占め、その対価として金銀を市場に送ったのです。収集した茶道具は家臣への格好の褒美品となり、信長から茶器を与えられ、茶会の開催を許されることは、大金にも勝る名誉とされるようになりました。信長四天王の1人にも数えられる武将の滝川一益などは、関東一円を領地として与えられるより、「珠光小茄子」という茶道具を拝領することを願ったと伝えられています。

貨幣の流通を促進

貨幣の流通を促進

最後のポイントは、金銀に加えて鐚銭の市場への流通を促した点です。当時の市場では、取引のときに銭を受け取る側が、質の悪い鐚銭を拒否し、質の良い銭だけを受け取ろうとする撰銭(えりぜに)が行われていました。
これに対し、信長は鐚銭と先に挙げた精銭の交換レートも単位当たりいくらと明確に定め、鐚銭の価値を担保したのです。この「撰銭令」という政策によって、それまで文字通りタンスで眠っていた鐚銭が安心して使えるようになり、市場に流通するようになりました。当の信長自身も皇族への献上金や軍勢の宿泊費をすべて鐚銭で支払っていたという記録が残っています。
さらに信長は、米を通貨代わりに使用することも禁じています。織田家は四方に戦いを抱えていたために兵糧米の流出防止を目的としていたといわれていますが、これも同時に貨幣経済の浸透に一役買っていました。

信長は、先述の「永楽通宝」を自軍の旗印としていました。それだけ経済を重視していたということでしょう。こうして楽市楽座などの自由経済政策を通じて富を獲得し、お金持ちとなった信長は、兵農分離を進めて専業の軍隊を育成し、天下人への道を切り拓いていったのです。

まとめ

戦国時代を知るうえで、切っても切れない関係にある貨幣。下克上の乱世を勝ち抜いていくには、武力だけでなく安定した経済力も重要でした。貨幣の歴史を紐解くことで、戦国時代への理解もよりいっそう深めていくことができるでしょう。

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